はりきゅうミュージアム
Harikyu Museum
「はりきゅうミュージアム」は、広く鍼灸医学の発展に寄与したことから「間中(まなか)賞」を受賞するなど、国内外から注目を集める希少な資料の宝庫です。そのコレクションは、鍼灸を主とする伝統医学を対象としており、経絡・経穴を記した銅人形や明堂図を中心に、鍼灸・漢方・柔道整復にまつわる道具や看板、浮世絵、書物など、重要かつ貴重な資料を展示・公開しています。これらは「伝統医学への理解を深めてもらいたい」、「伝統医療のルーツをたどることで鍼灸・柔道整復の研究に役立てたい」との思いから、学園創立以来40年にわたり収集し続けてきたものであり、日本における東洋医学の歴史を今に伝えてくれます。
ご利用案内
Guidance
場所 | 森ノ宮医療学園 3F (受付2F) |
開館時間 | 午後1時30分から午後6時30分まで(入館は午後6時まで) お電話にて予約の上お越しください。 |
休館日 | 土・日・祝日および学校休校日 ※都合により予告なく休館することがあります。 |
入場料 | 無料 |
museum@morinomiya.ac.jp |
収蔵品のご紹介
Harikyu Collection
はりきゅうミュージアムに収蔵されている人形や掛け軸など貴重な資料をご紹介しています。
浮世絵(多色刷版画を特に錦絵という)は江戸時代に発達した民衆的な風俗画で、十九世紀後半からはヨーロッパ美術にも影響を及ぼした。伝統医療のなかでも、広く庶民に浸透していた灸治は、格好の題材となった。
小児灸の風景(東都七福詣の内 金杉毘沙門乞)
五風亭貞虎画 1830〜1842年頃 38×25.5cm
母親は両足をうまく使って子供を抱き押さえ、左手で子供の右手首を握り、二間・三間・合谷あたり
のツボに灸をすえている。
切り艾と線香を使っているのがよくわかる。
子供はきっと熱さに耐えかねて泣きじゃくっているに違いない。
小さな左手で、母の腕を握りしめ、両足をバタつかせている。
施灸後は、我慢したご褒美に、手前のおもちゃであやしてもらえるのだろう。
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』48頁)
開花人情鏡焼艾(やいと)
豊原國周筆 明治11年(1878)36.5×25cm
親々の情けもあつき心より。良薬は口を酢くして進むる灸も。其身のためと知るや知らずや。事に託して一寸遁れ。転ばぬ先の杖柱らと。頼むにこめた無欲心。病なくに自から好むは犬の歯に。かかる蚤より稀なり着直す衣紋を前。背に腹更る甲包胥。おく歯で泣て一分の間。燵つ内を待つ神農艾。楚ならず麁ならず速に救命保全の功を奏ぜん
はせ河一嶺記
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』49頁)
麻疹能毒合戦図
―光斎芳盛画安政6年(1859)37.5×74.5cm
天界には痢病・大熱・霍乱(かくらん)・寝冷え・水気・コレラ・疫病・麻疹(はしか)の病魔が浮遊している。地上では、養食(能)と悪食(毒)が合戦を繰り広げている。
赤枠の「あきもも毒成(どくなり)」「玉子の入道(にゅうどう)」などは敵、白枠の「麦伝元良薬」、青枠の「大こん切干」などは味方である。
また、右下に「艾灸□□七十五日忌」の幡が見える。竿の頭に釜が飾ってある。この頃には「カマヤ」は艾屋の代名詞となっていたことがわかる。
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』49頁)
金銀御鍼値段表
28×40.5cm
縫針を作る針屋に対して、鍼治用の鍼を作る職人を鍼摺(はりすり)という。京都寺町の奈良弥左衛門の値段表から、後には御鍼師(おはりし)とも呼ばれていたことがわかる。
また、細工の技術を生かして内科(薬匙(やくじ))・外科・産科・眼科・口中科など医療全般の道具も手がけた。鍼の形状(長さ・太さなど)は各流派の注文に応じ、またメンテナンス(鍼の穂替)も請け負っていた。
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』9頁)
五臓血色伝 26×18.3cm
診察・診断
望んで知るのを神といい、聞いて知るのを聖といい、問うて知るのを巧といい、切(接)して知るのを工という....『..難経』六十一難。現代医学のように検査機器(医療工学)に頼らない東アジアの伝統医学では、四診と総称される独自の診察法が発達している。術者は、視覚・聴覚・嗅覚・触覚を駆使して得た患者の他覚所見と患者の自覚症状とを勘案し、治療指針いわゆる「証」を見立てる。治療の結果を左右する四診法(特に望診・脈診・腹診)も、秘伝として公開を避ける場合もあった。また、風鑑の術とも呼ばれた人相・骨相術を望診に応用することも多かった。
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』57頁)
按腹図解 25.5×18cm
按摩の上手な者は、腹中の病に用いる按腹を習得した。
按腹は、全身の按摩の後に行う手技で、気血を流通させる効果は薬力に勝り、また解熱作用もある(『素問』 拳痛論)とされた。
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』21頁)
吉田流鍼穴法
32×27.5cm
吉田流
吉田流は、戦国時代に興り、江戸前期に隆盛を極め、明治期まで続いた鍼の流派である。開祖の吉田意休は出雲大社の神官で、永禄元年(1558)に渡明して杏琢周に師事して鍼術を7年学んだ。意休によって日本に伝えられた琢周の流儀は、子の喜安と孫の一貞によって『刺鍼家鑑集』にまとめられた。
吉田流は通常の経穴名とは全く異なる独自の穴名を創案して流儀を秘匿した。『吉田流鍼穴法』は、全115穴を仰人・伏人・側人(前・後・横)の3図に振り分けて、書き記した穴法図である。
(森ノ宮医療学園出版部『はりきゅうミュージアムVol.2日本の伝統医療と文化篇』11頁)
『折肱要訣』挿図
27×18cm
整骨術の発展にとって実践的な骨・関節構造の理解は必要不可欠であった。この図では従来理解されてきた中国解剖学による365骨説は排除され、代わって現在に近い220 有骨説が採られている。
面図1幅 131.6×49.4 ㎝
江戸期 彩色模写
中国(明)・鎮江府で成化甲午(1474)年に板行された、面・背2図1組のうち面図の彩色模写。江戸期に日本で模写されたもので、九州柳川藩御殿医・永井朴元秘蔵の図と言われる。中国では失伝したようだが、背図1幅の彩色模写(模写者は別人)はライデン民族学博物館に蔵される。原板年はその上欄末の記載による(参考;「明堂経絡図序」丘濬(きゅうしゅん)著『瓊台会稿』(1489年初刊)所収)。
これは、現在流通していない「経絡図」の古態を留めている点で興味深い(例:足の少陰腎経の直線的走向など)。
図の名称であるが、「明堂」とは10世紀までの経絡経穴の体系を、「銅人」とは11世紀に整備し直された経絡経穴の体系を指す。ここで言う「明堂銅人」とは、新古併せた完全版の意味ででもあろうか。
17世紀に入ると、中国では『十四経発揮』系(寧波府刊)と『鍼灸大成』系(キン(革+斤)賢通校)、両種の経絡図が主流となる。
写者未詳 江戸後期( 文政以降)
彩色巻子 1軸 27.4×771.0cm
全21紙(前半14紙;整骨法、後半7紙;包帯術)
整骨法は、14法17術が記され、1法ごとに1つの図で表わされている。各術式については名称のみで、具体的技法は記載されない。術式の内容は華岡流であるが、名称は『正骨要訣』(吉雄流)系である。包帯術は16図あり、華岡流の解説文を付す。
国会図書館所蔵の『秋月胤永賛整骨図』に似るが、包帯術の説明文を付す点が異なる。また、柔術の天神真楊流の伝書『天神真楊流整骨図解』ともほぼ一致する(天神真楊流では、整復の変法が3法多く、包帯術が3法少ない)。
陳元贇由来の柔術・接骨術は、吉雄耕牛から二宮彦可(1754-1827)に伝えられ、彼の手で『正骨範』(1808年刊)としてまとめられた。その技法は、いちはやく華岡青洲(1760-1835)によって研究・昇華された。
右の写真は巻頭、探珠母法(顎関節脱臼の整復法)と熊顧母法(頸椎挫傷・亜脱臼の治療法)の図。
高志鳳翼編著 延享3(1746)年刊 3巻3冊
日本で出版された骨関節疾患・損傷に関する最初の単行書。
高志鳳翼は、摂津難波村の人で、名は心海、字は玄登、号を鳳翼・慈航斎と称した。医師で、漢学(古学)を穂積以貫に学んでいる。本書刊行時、30歳に満たなかったというが、生没年は不明である。
構成は、上巻に総論、中巻は各論(部位別の整復法)で下巻に薬方を載せている。
王肯堂の『瘍科証治準縄』(1601年)を中心に、明代までの中国医書17種を駆使し、挿図入りの読み易い仮名交じり文に仕立てたもの。
鳳翼は本書で、「整骨医が独立するための基礎には、骨・関節・筋・神経についての正確な解剖学的な理解が成立していなければならぬ」と説き、西洋流(紅毛外科)の知見も取り入れている。また、接骨の大要は"抜伸整入"の四字のみとし、治療に際しては無用の整復操作を避けるよう提唱している。
右の写真は"腰臀股膝損傷之治法"の内"凡腰骨損断治法之図"